ある日、認知症治療病棟に行ったとき、スタッフステーションで看護師が「Aさんがベッドから落ちてしまって・・・」と話していました。Aさんは、もともとは歩いていましたが、肺炎をきっかけに一日中ベッドで寝るようになり、1年ほど経過していました。今回は、ベッドの柵を自分で外して床に落ちてしまったようでした。すでに処置や検査などの初期対応を終え、今後のケアの相談をしようとしている雰囲気でした。すると居合わせた複数の看護師が集まってきて「Aさんはさ、やっぱり歩きたいんだよ」という声が上がりました。この反応に私は驚きました。他の病院であれば、リスクを考え、身体の動きが制限される拘束帯を使用して安全に過ごしてもらう、ということがよくあります。当院ではそれを行わないという基本方針なので、選択肢にないのは当然ですがが、即座にAさんの気持ちを最優先に考えたことがすごいと思えました。それをスタッフに投げかけると「Bさん(看護師)なら、きっとそう言うだろうなと思って」という返事が返ってきました。Bさんは、いつも相手の思いをめぐらせながらケアするベテランで、ぶれない考えをもっており、スタッフからも尊敬されています。この後、ご家族とも相談してAさんに無理のない範囲で立ち、歩くことを目指すような訓練を進めていこうということになりました。
この決定を可能にしたのは何だったのでしょう。多く語ることのないAさんのちょっとした動きから意思を汲み取ろうと、常日頃から看護師たちは様々な呼びかけをしていました。その延長線上にあって「“やっぱり”動きたいんだ」という言葉が出てきたのだと思います。また、ケアの方針を決定づけるのには、個々の看護師の信念や価値観、人生観などが影響します。職員同士が考えを率直に言える雰囲気や、組織が大切にしている信念のようなものが、Bさんを中心に作られているように感じました。そして何より、ご家族が以前と変わらず面会にご来院されては車椅子でAさんと散歩に出かけていたことも大きいと思います。寝たきりの生活が長引く場合、介護する側にも一種の諦めのようなものが生じることがあります。しかし、Aさんのご家族は定期的に一緒に過ごしては語りかけていました。Aさんはもちろん、ご家族とともにAさんの立場に立って看護師もケアできている実践場面に立ち会えて、私自身幸せに感じています。